東北アウトドア情報センター(略称・TOI とい)

TOIの活動報告、行事予定、面白花図鑑連載中。 東北アウトドア情報センター(TOI)ホームページ (発足からの活動、資料、各情報など) http://toi2015.o.oo7.jp/ 旧ブログ ~2019.3 TOIprのブログ http://toi09.cocolog-nifty.com/blog/ 記載者 八嶋 寛

2009年12月

船形連峰の西に位置する「黒伏山」は「くろぶしやま」が正しいが、つい「くろぶせやま」といってしまう。東北唯一の岩壁で落差300mほどある。

20歳台によく通った所である。

その南壁中央ルンゼは無雪期にたびたび登っていたが、冬にも登りたいと思って3回出かけた。そのたびに岩壁の取り付きをすこし登っただけで帰ってきた。

天候のこともあったが、冬の登攀知識、技術がとぼしく力不足であった。

002 画像は6月の黒伏山岩壁

1974年暮れからの正月休み、ヒマラヤ登山を予定している8名ほどのメンバーで黒伏山で合宿を実施することになった。24歳の時である。

私は仕事の都合で皆より遅れて一人入山した。              

「核心部」と呼ばれるルートの下で「たるみ」とか「10人テラス」とか呼ばれる暖斜面(と言ってもロープ無しで歩ける所ではない)に、すでにテントが張られていて、登っていった私を迎えてくれた。

核心部とはルートで一番難しい所などを表現する言葉である。                           

通常はテントなど張らないが、ヒマラヤ登山を想定しての訓練で、寝る時もザイル付きのままだ。

私が下から岩壁基部に向ってラッセルしている様子は上から丸見えで、上に着いたら「すくそばを熊が通ったぞ!」と言われた。                

その時は「そうだったか~」と思ったが、熊は冬眠中のはずなのでカモシカではなかったかなと、今はそう思う。

テントに着いてすぐに「次はお前だ」と言われて、翌日からトップをすることになった。1月4日、朝6時頃にテントを出て登攀となった。

詳細に書いていくと、長くなるので今日は簡潔にする。              

結論から言うと、全ルートを完登して稜線に出たのは真夜中の12時頃であった。

下から稜線を回って登り迎えてくれたメンバーに「おめでとう、よくやった」と言われてポットの温かい飲み物を頂いたのと、翌朝は手が凍傷の為に靴の紐が結べなかったことを覚えている。

なぜ、こんなに時間がかかったか・・であるが、経験、力不足はまず前提にして、要因は「チリ雪崩」の為であった。                  

チリ雪崩とは小雪が降ると壁伝いに寸断なく雪が流れることである。

じっとしていると肩やヘルメットに三角状に積もってしまう。

核心部付近は氷が張り出ていて、そのハング状を乗っ越した頃から小雪が降り続いた。

手元や足元を雪が流れていて、ホールド(手がかり)、スタンス(足の置き場)やハーケンを打つべきリス(小さな割れ目)を探るのにかなり時間を要した。

ちょっと進んでは戻ることを際限なく繰り返した。

後方でザイル確保してくれている二人に「代わる?」と何度かトップ交代を呼びかけたが、「行って」と言う返事で結局代わることはなかった。          

トップ交代もままならない状況であって、確保する側も支点に立ったままで長時間支えてくれた。

118

それから34年の今年1月、雪山講座でスキー場から黒伏山に続く柴倉山に登った。

画像はその時に撮影したもので、赤線は、おおよそのルート説明の為に書き入れた。

年末年始になると思い出すのは、この黒伏山や、北岳バットレス、富士山山頂、幕岩(唐沢岳・北アルプス)、八ヶ岳など、冬の登攀で過ごした若い日々のことである。

その1つ1つが、ヒマラヤを登る為に通過しなければならなかった「関門」だった様に思う。

19歳の12月、まずピッケルを買った。

RCCという名のウッドシャフト(木製)のピッケルだ。

冬山を登る知識もなかったが欲しい一心で求めた。

当時、仙台に唯一の登山用品店の女主人の紹介で、ある「山の会」に入会し、

すぐに年末年始の合宿に参加したのが初めての冬山登山となった。

59歳になる今日まで、必要に応じて15本ほどのピッケルを買った。

その内ウッド4本は人にあげたが、誰にあげたかとか、ピッケルの名前も忘れずに覚えている。

冬の登攀やヒマラヤ登山では、ピッケルの使い方が荒く土木作業的である。

1981年まではウッドを使ったが、その後は「メタルシャフト」にした。

ウッドは折れてしまうこともあるからだ。

今、手元にウッド4本と、あとはメタルである。

1981年、カンチュンジュンガ西峰ヤルンカン8,505mの登頂ではシモンDという名のウッドのピッケルを使い、2000年のチョモランマ8850m登頂ではグリベールのメタルのピッケルを使用した。

今や、登山用品店での品揃えはメタルやアルミが主流である。

私の登山講座でも道具の丈夫さなどから金属シャフトを薦めている。

D091225 画像はヤルンカン登頂時に使用した「シモン・スーパーD」745㍉のウッドシャフト。

雪山講座では本格的な冬山を登るわけでは無いが、ピッケルの知識をレクチャーする為に、私のピッケルを数本持参して貸し出しすることもある。

その中でウッドを貸すこともあったが、大事にしてきた物なので貸し出し用にさらメタルを買うことになって、ここ数年で3本増えた。

今年の冬(1月)、あることに気付いた。

ウッドとメタルを使った受講者が、歩行時杖代わりの使用ではあるがウッドの使い易さを伝えたのだ。

今まで、「丈夫さ」だけを考えてメタルを使い、「愛着」の点でウッドを保管して来たが、手にするピッケルの重さや長さなどの微妙な点では、それぞれ違うことに改めて気付いた。

道具は軽ければ良い。ということではない。適度な重さも重要だ。

日常的な道具である「ハンマー(かなづち)」も同じで、振り下ろして「打つ」「たたく」という仕事の為に多種がそろっている。

ピッケルの場合は地面を刺しながら歩く、深雪や斜面、雪壁、岩壁、氷壁などで支えとする道具である。

シャフトの長さ、太さ、ヘッドの重さ、形状など、ヨーロッパアルプスの職人による技と使用する登山家により長年追及され続けてきたピッケルである。

中高年の登山者増加という現象で、この15年ほどで登山道具に格段の進歩が見えるが、売り手の都合などで画一的になっているとも感じている。

先日、いつも座っている椅子が壊れた。

主軸を支える部分が破損してしまい、座れなくなったのだ。

25年ほど前、独立して有限会社の事務所オープン時に購入した物である。

見栄を張って中古で買った「社長の椅子」であるが、決意と意気込みもあった。

091224 何度も引越ししているが、とても重くて運ぶにも積むにも大変であったが、なぜか離さずに来た。

変わりの椅子は事務所内にいくつかあるので事務イスやパイプイスなどに座ってみたが、どうも落ち着かない。

他の椅子では、あきらかに作業能率が上がらないのだ。

「すわり心地」ということが、壊れたことで初めてわかった。

当時、中古で1万円程度であったと思う。

同等な物をネットで調べると、「プレジデント・チェア」として、10万円以上することを知り驚いた。

「椅子職人」による伝統ある最良の椅子だったのだ。

壊れた部品は鉄工所に運んで溶接修理してもらったが、この鉄工所も会社創立以来の付き合いだ。

再び、普段の「座り心地」が復帰した。

本業の設備業はあまり気を入れてやってこなかったので、会社はいまも小規模(零細とも言う)のままだが、一応、維持している。

むしろ、ヒマラヤ登山のプラン作りや原稿書きなど、机上でやる膨大な仕事を、この椅子で長くやってこれたんだなーと感謝の気持ちになった。

19歳で最初の雪山(南蔵王の不忘山1705.3m)を登ってから40年が過ぎた。

毎年11月頃に仙台市街の寒風の中を歩くと「いよいよだな」と嬉しくなる。

実は40歳台の頃に「暖かい春がいい」と思ったこともある。

たぶん、一時「雪山を登れない時期」があった為だ。

50歳になって、また「寒風」が嬉しくなった。

登山講座やカルチャー登山で、冬山を登る機会が増えた為だ。

今年1月からは、雪山講座で週2~3回ほどのペースで登山した。

同じ山に数日過ぎてから、また登ることもあった。

09215_089 安達太良山の最高峰・箕輪山1728mには4回出かけた。

画像は箕輪山山頂。背景は磐梯山1818.6m。

冬山は夏道と関係なく別なルートをとれるので、それが楽しい。

箕輪山の山頂直下のシュカブラが美しかった。

09215_059 シュカブラ(ドイツ語発音)とは、雪面がクラスト(固い状態)して波上の紋様が出来ること。風によるので風紋とも言う。

花の時期なども、その変化を見るのが楽しい。

ちょうど、この文を書いている時に、1月から初めて雪山を登る受講者から「1月を楽しみしてます」とのメールが届いた。

私はヒマラヤを登る為に必要な知識、技術として登り続けて来た。

一般の登山でも、地図の見方や天気を読むなどの基礎知識を身につけるには冬山が最適だ。

「雪山を登る心」のタイトルにしたが、分析するのはまた別な機会にする。

心が「山の美しさ」を求めていることは確かだ。

山はその日により、見せる「顔」がちがう。これは冬に限ったことではない。

GⅠとはガッシャブルムⅠ峰(Gasherbrum I)のこと。

中国とパキスタン国境にある山で、ヒドゥン・ピーク(Hidden Peak)とも呼ばれる。

GⅠ8068mの隣にはGⅡ(ジーツー)8035mがある。

さらに、Ⅲ峰からⅥ峰7003mまで6つの衛星峰(えいせいほう)があるので、

このような呼び方をしている。

G091212_005 ヒマラヤの高峰に興味がある人でないと、すぐには分からない山名、記号?である。

先日(11月7日)、久しぶりに「ヒマラヤ講座」を開催して、私が1989年に中国側から登山した映像記録を参加者に見て頂いた。

今まで10回ほど、ヒマラヤ登山や探検に出かけたが、もっとも記憶に残る登山である。

到達したのは6100mまで。目標である山頂にはほど遠い地点までであったが、やりがいのある登山であった。

自身が雪崩にあって「九死に一生」を経験したからだけではない。

美しさと危険、困難の極みと言える山であったからである。

経費面でも2000年のチョモランマ登山に近い3000万円を越え、準備にも5年ほど要した。

当時、登れる可能性の高い八千峰も検討していて、自分自身、隊長として選択に悩んだ。

帰国後も、このメンバーであったら他の山であれば登頂者を何人も出せたなーと反芻したこともある。この報告は、いずれHPにアップするつもりである。

G091212_014 この山はパキスタン側からはよく登られているが、中国側からはその後はまだ無い。

登山隊として派遣するところもないようだ。

そのくらい難しい。

登れるかどうか?だけでは無い。

アプローチ(経路)にシャクスガムという河があり、登山時期には数キロもの河幅が増水するので退路を絶たれるのである。

増水の前に入山して、引いてからの下山となる。

あのラインホルト・メスナーー(イタリアの登山家で人類史上初の8000メートル峰全14座を完全無酸素登頂を成し遂げた)から、写真が欲しいとの要望が日本の人を通して連絡があったのでポジを複写して送った。

その後、丁寧にお礼の手紙とサイン入りの著書が届いたが、山に挑んだということは聞いていない。

なぜか国会図書館からも依頼が来て、報告書を寄贈した。

登山界では特に関心は持たれなかったし、評価もなかったが、見てる人がいるんだなと感じたことであった。

G_091212_004 後20年若ければ、また行くかも知れない。

体力とかの問題ではない。

「すべてを捨てるエネルギー」と意思力が無ければ、近づくことも出来ない場所である。

また繰り返すが、そのくらい難しい。

そう言った意味でも、あの時でなければやれなかったことであり、行けたことが幸運であったと思う。

↑このページのトップヘ